Fondation Cartier

in bed1

とりあえず初めてなので、以前mixiで書いたレビューを載せてみようかと思う。もうとっくに終わってしまった、カルティエ現代美術財団コレクション展@東京都現代美術館(4/22〜7/2)。

ロン・ミュエク《イン・ベッド》


コレクション展故にいろんなモノが錯綜して一概に語ることが難しくなるなかにあって、その息を呑む精巧さによって最も記憶に残るだろう作品。
ベッドに横たわるその大きな“モノ”に人間らしさを探しては認め驚嘆すればするほど、その景色はガリバーが小人を見て思う不気味さと馬鹿らしさ(勝手な想像です。)を思わせる。

ハイパーリアリズムによって価値が付加され、拡大・複製のポップアート的手つきで、物質的には、(商品化されゆく)“人間”を複製してみせる。しかしそのコピーの精巧さ故にそれが“ある人(没個性な人間一般でなく、特定の個人)”的であることで、多様な解釈の余地や“POP”さを持ち合わせていない。そして中年女性のその憂いを感じさせるモチーフに、反復・消費を生きる耐久的イメージは存在せず、もっと脆く危うい生命感を醸しているように思う。そこには反復への肯定も否定もなく、強いて言えば諦めがある(ような表情である)。その大きな“女”は、顔を見れば明らかに中年なのだけど、腕や肩の露わな肌はより若く感じられ、そしてその肌の違和感からより大きな違和感として浮上するのが、頭部と体のズレ。(微妙なんだけど、)体に対して頭部が大きく、言わば体は少女で頭部は中年であるかのよう。それらは、それぞれ産み(子を、ね。)への憧れと諦めの世代であり、子というオリジナルの生産(出産)が不可能な擬似女性をハイパーリアルに拡大してみせることで、アーティスティックな創造性を皮肉ってみせたのかもしれない。


他にもデニス・オッペンハイムやらサラ・ジーやら松井えり菜 やら、グッときた人たちがいっぱいいた展示で、冒頭で“一概に語れない”なんて言いつつも、その実、全般的に楽しんでしまえたようなある時代(?。…ではないかな。)の空気感を感じとっていたりする。

けど見に行って即「面白い!」なんて思ったわけじゃなく、結局は2度足を運んだ後じわじわと湧き上がるようなそんな思いだったわけだけど、しかし今強烈に思い出されるのは、まだ6月というのに灼熱を浴びざるをえないっていう不条理な思いを募らせるばかりの駅から美術館を結ぶ道程ばかり。
でもあの陽射しは嫌いじゃない。