こちらで知ったこの動画が面白くて、で僕はサッカーは全然詳しくないし意識的にリアルタイムで見ることもほとんどないからどうなのかと思うのだけど、これってまさに今歓声/喚声を上げ眺める人達は笑えないんだよね。とりあえず僕がその場で(生で)見ていても笑えないだろうと想像するから“ファン”な人達は一層笑えないのだろう。コンテクストから隔離されたフレーミングの妙で笑いへと転化されるってのが見てとれる。あちら側とこちら側、のこちら側で眺めることが許された場ではじめて生まれる笑いとでもいうか。“笑い”をちゃんと考えたことはないから凄く曖昧だけれどとりあえず笑いには3種類あって、それは、こちら側で起こる笑い(会話の中で巻き起こるそれ。あるコミュニティ内での笑い)、あちらとこちらのその狭間で起こる笑い(芸人らの“笑い”)、あちら側を笑う笑い(今回の動画とか)なのかなと今思う。例えば自嘲的な笑いだったら、自分をあちら側に位置づけて笑ってみせるその解離っぷりが時に恐怖を誘うのだろう、とか。
つい2ヶ月前まで森美術館で開催された『笑い展』に僕が持った疑問符のワケはどうやらこれで、本来アートはその場(展覧会場等、見る場)でリアルタイムで(生で)観るかの如く提示されていたのだけれど*1、『笑い展』ではそこに“笑い”を冠することで強引にアートをあちら側へと投げ隔離する構造が潜んでいたんではないかということ。それは“笑い”とは逆の構造ゆえ結局そこに笑いは生まれない。自らとはかけ離れて存在する作品との距離をただ意識し続けるしかない。
徐々に個と社会の関係性へとクローズアップされてきたアートにおいて、『笑い展』で提示されたその構造は再びアートを個から引き剥がすようにも思える。『笑い展』は当初僕には疑問ばかり残すものと思われたけど、こうしてみれば新たな視点/概念を開示した場だったのかもしれない。
さてと、こうしてこちら側から解き放った当初の動画は果たして再び笑えるのか?

*1:という印象ね。でもあながち間違ってないと思う。そのうち整理出来たら書いてみたい。