nibroll『ROMEO OR JULIET』

wonderlandニブロール「ロミオ OR ジュリエット」(クロスレビュー)を読んでいて思うのはダンス(舞台)評の自由さだろう。もちろんそれは文字数の少なさのなかで表現すべきが俯瞰的位置づけとともにある冷静かつ客観的な言語であるよりも、(舞台というものの客層の薄さを意識した上では)主観的・情緒的な言葉であるほうがよりよいからだろうけれど、しかしそれらの言葉が生むイメージの裾野の広がりを感じればそれを“自由”ゆえの広さと捉えるのも間違ってはいないように思う。
レビューのなかでは、あの舞台での要素の過剰さを誰もが指摘しているが、その過剰な状況下で身体はどう振舞うか。過剰さに溶融していくか、拒絶し痙攣を続けるか、どうにか俯瞰を続ける冷静さを保てるのか、そしてそれらの先はあるのか、そんな問いが各人の評からは見てとれる。それらを読んでいてそのあまりに“いま”という瞬間に根ざした言葉たち僕はに驚いたのだけど、でも確かにそうかもしれない。ニブロールは現代に生きすぎていてそれがあらゆる要素の過剰さに繋がっているのは強く感じる。以前のエントリを書いた上で僕は、nibroll(の表現)とは「漸進するゼロ地点に立ち続けるという意志表明」であると思っているのだけど、そうして僕個人の中で位置づけてしまったために捨象されたもやもやたちがクロスレビューの言葉の中で再び立ち返ってくるようだった。
だから各人の評にはそれぞれ共感する部分があって、その中でも以下の言葉は特に。船元雄一郎のレビューから一部引用して。

恐らくこの変化は、良くも悪くも個人的な反骨心にインスピレーションを得ることを超え、世界や周囲に向かう高度な旅を選ぼうとするラディカルな意志。あくまで同時代に挑む姿勢は誠実すぎて、ちょっと泣ける。

記事内には写真も何枚かあり、より今回の舞台の雰囲気が伝わるんじゃないかと。