バットシェバ舞踊団『TELOPHAZA』

Batsheva - Telophaza

2日、バットシェバ舞踊団『TELOPHAZA』@神奈川県民大ホール。オハッド・ナハリンが芸術監督を務めるイスラエルのコンテポラリーダンス・カンパニーの11年振りの来日公演、、、なんて書いてみても、僕は何一つ知らなかったカンパニーなのだけどね。しかし良かった。シリアスともとれる愛を訴える呼びかけや振付と、逆にどうにも駄目な動きが笑いを誘う群舞とが混在していたけれど、それはどちらもダンサーなり観客なりに対する無条件の信頼の表現という点では共通していて、それが観るものにとってはとても心地良かった。
舞台奥には4枚の大きなスクリーン、直立の姿勢で舞台上に分散して現れた34人の多国籍ダンサーがリズムの始まりとともに腕・脚を伸ばしたまま四つんばいになり痙攣のように振動する、その後再び直立、サンプリングのようないくつかの音の連続が徐々に重なりあっていく中で、それぞれの音に対応した振りが集団内でこれもまた徐々に各人に振り分けられるかのように広がり、やがて全員が分散したまま舞台上に動きのうねりが訪れるというその“入り”は、例えば他者性と多様性、ネーションの存在をシリアスに捉えたものともとれる。しかし舞台が進行するとともにその表現は徐々に身体それ自身へと絞り込まれていく。
舞台上には4人のダンサーだけが残され、彼らは舞台奥各スクリーン下方に置かれた各カメラ正面に一人ずつ背中を見せて立っている。そのカメラが捕える各ダンサーの顔が上方のスクリーンに大きく映し出され、やがて3人のダンサーがカメラを離れ踊りだす直前、残される1人の顔が4枚のスクリーン全てに映る。4枚のスクリーンの中で同一の顔(頭部)がゆっくりと動き出す映像を背景に3人が踊り、やがて別の1人が現れ空いたカメラの前に立ち今度はその顔が4枚のスクリーンに映し出されることで直前までスクリーンに顔を見せていたダンサーが舞台へと流れ出、それまで舞台上で滑らかに踊っていたメンバーに合流する。それが繰り返されることで徐々に舞台上のダンサーは増え群舞の様相を呈し、背景の顔(とその頭部の動き)は入れ替わっていく。そこでは、当初は背景にある顔が見つめるのは舞台上のダンサーかその先にいる観客か、または焦点のない視線か分からないままだったものが、舞台上のダンサーが増えていき同時に背景の顔が移り変わり続けていくなかではその顔という抽象性のみが表れて俯瞰的視点を観客と共有することになる。
しかしその後スクリーンの(今度は1枚のみ)に映されるのは一人のダンサーの足首から下のクローズアップの映像。そこではゆっくりと足が他方の足を舐めるように動いたり、また筋肉の緊張をみせたりするのだけど、これが凄く美しい。ここで見られる“部分の美しさ”はその後の再び舞台上で分散した34人のコミカルな群舞(笑顔でただ立ちリズムを取るだけのダンサー達の腕が徐々に横に、後に上へとちょっとずつリズムに合わせて動いていくだけで、その時彼らの人差し指だけピンと上に向けられてるという、凄く微笑ましい群舞)へと続くことで今度は部分の集合としての人とその身体への賛美を謳うように祝祭的な明るさが舞台上に現れる。
その後の幾つもの展開のなかでは「レイチェル」というダンサーが観客へとスクリーンを通して語りかけ、その指示にしたがい観客も体を動かすインタラクティブな場面が2度あり、そこで訴えられるのは身体を動かす歓びや、愛/感情の喚起からその愛/感情の表現(動き/踊り)を経験した先の、身体から意識へとアプローチする術のようなもの。その2度目の場面では舞台前面に並ぶダンサー達とともに立ち上がった観客達が跳ねるリズムに乗り踊る(もちろん僕も)という展開まで。その直後、ダンサーもほとんど姿を消し静まり返る舞台上のその奥で、横たわる1組の男女がキス手前で愛撫するように頬をすり合わせる様子が1枚のスクリーンに赤外線映像で映し出され、やがてバグパイプのメロディーとともに舞台を激しいフラッシュの明滅が襲いその中で立ち上がり踊る男と舞台前面に並べられていたパイプ椅子(2度目のインタラクティブの際に並んでいたダンサーが当初座っていたもの)を跳ねるように渡る女の姿が残像のように目に焼きついて舞台は幕を閉じた。
大部分の観客が再び席についていたなかで立ちっぱなしでいた僕はもうスタンディングオベーション。何割かの観客も立ち上がり、喝采と拍手の嵐。ちょっとぶっきらぼうなくらいだった場面の展開といい構成といい、作品へではなく観客への信頼が強く感じられた舞台だった。
これを僕の中でどう位置づけ消化すればいいか、それはまだ難しいけれど、振付の各所で見られた西洋ではないもちろん日本でもない身体性は刺激的だったし、ずっと迷っていて結局直前にチケットを取って観た舞台だったけれどとにかく観てよかったと思えた。
ケータイにメモとして後で書き残したものが邪魔をして凄く冗長な言葉になり、自らそれに頭を抱えてしまって本当は重要と思った要素も随分端折った文章になってしまったから、それはこれからどうにかしなきゃ。て、自分メモ。