ボキャブラリーを削る表現が出来たらね。言葉でも絵でも会話でも音楽でもなんでも。分かる人にだけ分かる囲い込まれた世界の内の共通知はもちろん十分すぎるくらい楽しいけれど、その共有された知の中で戯れていてふと気付いてしまうのは否が応にも漂う閉塞感だったりする。こちらを削ってあちらに委ねるっていう決断(というより、そう決断したという態度の表現、かな。)が重要になってきて、一見した粗暴とその実の繊細が入り混じる社会になってく中で、知を開き続けるか、または受容可能性を信じて噛み砕いた上澄みのみ届けるのか。そのどちらにも興味があるけれど、当座僕に出来るのは後者かなあと今、思った。
あ、これ201個目のエントリだ。