関根繁樹という人

シゲキさんと会ったのは2002年の7月だった。Drink 'Em All vol.3に誰も知り合いもいないままオープンすぐに友人と2人で入り、気を使われて話しかけられたのが始まりだった。Pogues周辺の話はすぐに噛み合い、その後とあるレコード屋のオープン初日にも顔を合わせた。その日、会うのはまだ2回目だったが僕は持ち前の空気の読めなさを発揮し彼の家に泊まったのだった。あまりに汚い家だったが僕にはそれは大した問題でもなく、そんなことよりも、それだけ(=驚くほど)汚い家にも関わらずレコードだけは大切に扱われているというその事実が大事で、そういうところだけは少なからず乱雑な振舞いの裏に見え隠れしていて、そこに僕は安堵し、彼に一抹の信頼を寄せたのだと思う。鈴音を初めて飲んだのもその日だった、その後彼とそんな洒落た酒を飲むことはなかったけれど。
僕とその友人、及びそれ以降彼に引き合わせたさらなる友人たちは、彼の望む音楽世界を引き継ぐほどの能力も熱意もなく、しかしそこには若さに伴うニューウェイブな香りは漂っていたのだろう、少なからず気にかけては貰っていたと思う。彼がこれからの日本で確立しようとしたラスティックというジャンル、それはTOKYO SKUNKS(のフロントマン:ダビ助)が名付けたジャンルだが、しかしそれはアンダーグラウンドの比較的コアなファン層を中心に定着したのみで、より広く浸透したとは言い難かった。シゲキさんはそのラスティックを、表層の音ではなく、音に向かうスタンスとして捉え直そうとしていた。70'sパンクを経たPoguesという存在、そのPoguesという存在を経つつもそのルーツへと向かう現在の様々なバンド達、また、言ってしまえばPoguesなんかに関わらずともエリアコンシャスなルーツに根ざした音を独自の快楽と哀愁に昇華させる者達。彼らを、Poguesなどのような80'sに留まらない、ラスティックの現在形として捉え、やがてはワールドミュージック内の1ジャンルとして確立させるべく*1彼は動いていた。
その彼が亡くなった今、僕らがその後を引き継ぐことはありえない。が、29歳という若さで亡くなった彼とその意志を僕らが忘れることもなく、彼のやり方とは異なる立ち位置で、自由に、好きな音楽を追求していく、そういうやり方が求められているのだと思う。時に「シゲキさんだったら・・・」と振り返ることはありつつも、それが行き過ぎるようにして“彼に同化する”なんてのは最もつまらない思考/行動だから、いかに自分なりの“芯”を確立させた上で動けるか、そんなことを意識しながら僕らは日常を振舞っていくのだろう。
抗がん剤を断ち、頭髪とモミアゲが良い感じに生え揃った彼の最後の姿は、格好良かった。

*1:それは例えばROCKのなかのパンクのような。とはいいつつ、ROCKってなんだよ?ってのは常に付きまとう疑問で、つまりはワールドミュージックってなに?っていう疑問を超えて“ラスティック”が認知されることを彼は望んでいたんだと思う。仮にそれが無謀に見えたとしても、彼にはそれをやり遂げてしまいそうな切迫感とバイタリティが常につきまとっていたのだ。