『友達』@シアタートラム

岡田利規 友達

15日日曜日に観た舞台、作:安部公房 ・演出:岡田利規による『友達』@シアタートラム。岡田利規はそのブログでも、またパンフレットでもこれは「暴力についての物語」と語っていて、それはちょっとだけ言葉を足せば、“疎外という暴力についての物語”ということになると思う。原作となる戯曲『友達』が書かれた時代(1967年?)を僕は上手く想像出来ないが、しかし舞台の最後に主人公(?)の“男”が求めた新聞が読み上げられるところなど、かなり強烈に時代の(現代の)暴力を表すシーンだった。15日は“ヒラリーが国務長官か”や“母が娘を監禁”等の記事だったが、あれは毎日その日の記事が用いられていたのだろう。
9人の善良な家族が、1人の孤独な青年を親切にも救おうとするこの物語は、マスによる個の無視、それも単なる無視でなく、積極的な働きかけの結果の撤退的な疎外と単純化できる。けれど、9人の家族のそれぞれが魅力的な多様性を備えていたり、意見を異にすることも幾度となくあるような関係であるのに、通底する単調な理想に染まっている異質さは、マスがどうという話に終わらない不気味さを感じさせて、観るものをそれぞれのオリジナルな体験へと送り戻す。過去に、誰しも誰かかから同様の経験を味わっているということを今思い起こさせられる、という形で。もちろん味わわせる側としても。
これがどれだけ現代的なことか、それはそれこそ“今”を強調することもなくどの時代にも言えることだけれど、しかし例えばこの過剰なメディアの混乱と激変期にあってはやはり“今”上演する意味とか、“今”観る意味とか、色々考えさせるよ。さらには、僕は事前に戯曲を読んでから観たのだけど、なんとなく戯曲を読んだだけでは想像できなかった、あの新聞を読み上げるシーンのインパクトの大きさとか、“今”だけではなく、“生”であることの意味とかも考えさせる。
最後に岡田利規の演出について、僕はチェルフィッチュが好きで、しかし同時にあの舞台を語る術を持っていないと感じて肩を落としている人なのだけど、しかし今回の舞台で唯一触れられるとすればやはり主人公(?)の“男”がドンキで売ってるような安い“牛の着ぐるみ”(というか、フードのついたフリース素材の牛柄つなぎ/パジャマ)を着ていて、「モゥー!やめてくれよぉー」なんて言って尻振ったりしている演出で、それを観て観客が笑う構造というものを創ってしまうってとこに、心底恐いなあ(=面白いなあ)と感じたってことか。

てことで“疎外の暴力”周辺で言葉を並べつつも、岡田利規が「暴力についての云々である前に、作品それ自体であり、パフォーマンスそのものを見てほしい(←パンフを思い出しつつ要約)」とも語っているように、そこに再現性のない舞台空間だからこそ満ちる空気や感覚への言葉がないのもつまらない。てことで、役者の魅力それ自体も強く残る舞台だった(元も子もないけど、そもそもそういう戯曲だ、とも言えるのかもしれないけど、そこはまあ、ね)。恐らくあそこにいた観客の誰しも、役者の誰かしらの印象が未だ離れままでいるだろうと想像できる。例えば僕ならば、“父”を演じた若松武史*1や、“三男”を演じた19歳の柄本時夫、“三女”の呉キリコ、とかね。

*1:ニュータウン入口』でも観た、てのもあるけれどね