ジム・ランビー/池田亮二

5月に入ってから、合間をぬって観た展示2つ。ジム・ランビー『アンノウン・プレジャー』展(Jim Lambie/Unknown Pleasures)@原美術館と、池田亮二『+/− [the infinite between 0 and 1] 』展@東京都現代美術館
まずはジム・ランビー展、「Strokes」と題された黒いテープのストライプで床の全てが覆われた空間にいくつかの自立した作品たち。しかしそれらの作品群はやはりその“床”と同調するような存在感を湛えていて、それら全体として一つの場が作り上げられていた。原美術館の曲線のフォルムにシンクロするように、そして音楽のリズムのように短く・長く張り巡らされた黒のストライプは空間をイマジナリーな場へと変容させていて、レコード(のジャケットだけのようだったけど。)が埋め込まれたコンクリート塊がそこから生まれる/埋もれるようにして置かれているのは、そんなイマジナリー空間の分かりやすい表れのようだった。そのストライプは(ピッチやスケールがある程度の大きさでしか意味をなさないだろう有限性を否応なく備えてしまうとはいえ)、ほとんど無限に広がる空間を示唆していて、境界を持たず広がりシンクロする、凄く柔軟で、根源的に自由な色彩を帯びている。それを“音”に喩えるのは若干の境界を再び築いてしまうようでもあるけれど、しかしジム・ランビーの意図としては音楽にそんなイメージを持っているだろう。と考えると、空間を覆う白と黒のストライプはそれ自体はもちろんモノクロなんだけど、イマジナリーには凄くカラフルに思えて、無限の色彩を帯びて広がっていくそんな存在のよう。だから、壁にかけられたモノクロのマイルスやジョンのポスターをカラフルな花々が覆うコラージュの作品におけるその“花々”と、床を覆うストライプは全く等価な存在なのだと思えた。
そんなジム・ランビーとは対極ともいえる音のアーティスト、池田亮二の現美での個展でも、空間を覆うデジタルな数字(数値)が象徴的に扱われていたけれど、ジム・ランビーでのストライプと池田亮二の数字では在り様が対極にあるように思えたのは、“外”と“内”の違い、とでも言おうか。そんな明らかな対比の構図もあまり面白くはないけれど、しかしそんな2つの個展がほとんど同時に開催されていたのは面白いだろう。感覚的に空間を変容させるジム・ランビーと、システマチックに変容させる池田亮二との対比、と言ってみてもまだ本質には遠いなあ、どう言えば良いのか。快楽的なジム・ランビーと禁欲的な池田亮二、という対比にすれば間違いはない。けれど、そりゃあそうだって感じで面白くはない。それに何より、禁欲的であることを快楽として楽しんでしまう(僕のような)人も数多くいるだろうし。
とまあ、池田亮二の展示について語るようでいて語らないままこのエントリは終わるのだけど、しかしとても楽しかったよ。映像のループも音のループも、見えるし変わることなく延々と続くのだけれど、あそこには何時間でもいれると思えた。1階の展示室での、3台のプロジェクターで映像が投影された巨大なスクリーンと化した壁を、向かいの壁の足下に座りもたれて眺めているとき、数え切れないほどの数字(数値)が投影されたそのスクリーン手前まで歩み寄って座り眺める女性がいて、その画が凄く良かったから当然撮影は禁止の場なんだけど、学芸員の目を盗んで撮った写真が以下。この画を見られたことも、楽しかったっていう大きな要因だったりするなあ。