dracom『たんじょうかい』

dracom Gala公演『たんじょうかい』

17日土曜日、dracom Gala公演『たんじょうかい』5月17〜19日@心斎橋ウイングフィールド。GALA公演ということで、大阪の劇作家の戯曲3本をdracom筒井潤演出により上演する。僕自身、dracomの舞台を観るのが初めてな上に他作家の戯曲を上演するということに対して、恐らく語りの引き出しを見つけるのが難しいんじゃないかとは予想していたのだけれど、そういったモヤッとした感覚は実際に観ることで拭いさられることになる。
舞台を観ながら/観終えてまず思ったのは、画面的・映像的だということ。その画面構成的な/カット割りの妙とも感じられる演出が、とても不穏だけれども美しくて、これは良いものを観たんじゃないかと思った。

最初に上演されたのは『スカートにバター』作:サリngROCK(突劇金魚)。とあるマンションに暮らす若い夫婦間のすれ違いを描く、という中で、いかにも現代的な二人の生活についてと牧歌的な過去の恋愛の対比や、夫と妻の思考のすれ違いの対比に痛々しさを感じる戯曲という中で、夫婦の二人はほぼ互いを見つめることなく、その視線は平行のままこちら(観客側)を見つめ続ける。まるでスクリーンに切りとられた中で会話を続けるように、二人はこちらを向いて語る。観るものの頭の中で二人の会話の風景は合成されていくが、それは二人のただ中に観客自身が置かれ、それぞれに通訳/伝言をするような風景でもあり、二人の間のコミュニケーションの齟齬を増幅させすらするイメージを産み落とす。ラストとなるシーンで未来への希望を感じさせつつも答えを示すことはせず、不穏さは続いていく。
劇中で、呼びかける妻の声に応えるようにして、奥の壁近くで背を見せつつ立っていた夫がゆっくりとこちらを振り返るシーン、その顔は最初からあんぐりと口をあけたまま、回転する頭部に対し視線はぶれることなく正面を見続けていて、その見た目の危うさにちょっと感動した。

続いて、『床の新聞』作:中村賢司(空の驛舎)。こちらもとあるマンションの一室で、そのマンションに暮らしていた母の遺品整理をする兄弟とそれぞれの嫁という2つの夫婦間の物語。やはりここでも、母子/兄弟/嫁姑/嫁小姑/更に…というように人間関係のあらゆる不穏さが仕込まれた中で、母の趣味だったという有田焼の大皿を介して(会話のフックになり、視線の焦点になり)舞台は進行する。特に舞台上部のスポットライトがテーブルに置かれた有田焼の大皿を照らすことで、その反射が皿を覗き込む演者たちの顔をありありと照らし出すシーン、そこでは演者の動きはその前後とは異なりスローモーションのように非常にゆっくりになる。それが常にテーブルにつく(またはテーブルから離れる)瞬間の動作のスローであるため、テーブルに置かれた大皿が象徴する母との記憶/関係を強調するようでいて、同時に、大皿に近づく/離れる決定を経ての動作であるからこそそれは自動操縦的に身体が駆動するはずの、つまりは思考の空白地帯を切りとったものなんじゃないかとも思えてくる。一方で、時折会話が重なって継ぎ目なく続く早送りのような時間も舞台上にはあって、そんなオートマチックさを強調することで、核心には触れることなく迂回する人々の自走状態のコミュニケーションを見せられ続ける舞台に、引きつった笑いも出るというもので。
とはいえ、照明の落とされた舞台上で唯一の照明がスポットライトとして大皿を照らし、その反射が周囲の演者の顔を浮かび上がらせるシーンは、近代絵画のように、またはビル・ヴィオラの映像作品のように美しくて頭から離れない。

最後の『コイナカデアル。』作:深津篤史(桃園会)については、どうにも語る言葉を見つけられなくて断念。風呂に住む男とと、夫婦の話。分かりそうで分からなかった。というか、自分なりに楽しむ手がかりが与えられなかった感じか。桃園会の舞台をいくつか観た上でなら語れることがあるのだろうけど、ここまで無色の印象というのも不思議。そういう意味での周回した興味があったりはする。
ともあれ、とても面白かった。三日間、1回あたり数十〜100人規模であの公演が終わるなんて勿体無いなあとか勝手に思う。dracom関連では筒井潤演出の舞台が6月末と7月頭にそれぞれあるようなので、都合さえつけば観ておきたい。