アドリアナ ヴァレジョン展@原美術館

アドリアナ・ヴァレジョン 『赤むけの

ひと月以上ぶりにartカテゴリ。アドリアナ ヴァレジョン展@原美術館。彼女の作品は以前たしかカルティエ財団展@現美で見ていて、そこである迫力とともに何かしらの異和感を覚えていた興味から久々にアートを観る気になれたのだった。
僕にとっての異和感てのは恐らくアドリアナ・ヴァレジョンが第三世界の作家であることに尽きるのだけど、例えば画面に描かれたタイルの表面が割けそこから血肉があふれるその直截で触覚的な表現が美術として認識され美術に取り込まれる時、そこにある種の原始性のようなものが意識されているのではないかということ。そしてその原始性はやはり西洋美術の外部としての認識故に発生しているのだろう。ここで、誰がそう認識しているのかと言えばそれはもちろん正統な美術*1の内部にいる人間なのだけれど、と同時に作家本人もそのことに極度に自覚的なのではないかと感じられた。
なんて言うのは西洋/非西洋の美術の構造を眺めたくてもそれがまだ全く掴めない僕故の防衛機制的リアクションからくる思考なのかもしれないけど、しかしもしそうでないとするならば何故“作家本人も極度に自覚的である”と感じられるのか。それは、彼女の作品が原始性と同時に十分すぎるほどの西洋的美術性を備えているからだろう*2。つまりは、美術における第三世界の受容の在り方に自覚的である故に敢えてそこに容易に潜り込めるフォーマット(西洋美術性)を創出しその受容可能性までもを予め見通してみせるような、そんなメタ批評性とでもいうような*3、凄くクールでアイロニカルな態度が潜んでいるんじゃないかってこと。
例えば『フォンタナの切り込みの入った壁』なんて、フォンタナが積極的に絵画を乗り越えようとしたのだとすればそれを消極的/自虐的に立体物へと押し戻したかのような作品でちょっと笑いがこみ上げるほど。
ところで今回展示された作品のほとんどは予想通りタイルに覆われた空間が描かれた絵画やそこから血肉のあふれる絵画/立体で、かつそれらが比較的最近の作品なのに対して昔の作品(90年代前半くらい)たちは少数だったのだけど、その中で最も僕の印象に残ったのは展示のハイライトともいうべきタイルの作品群ではなくて何故かその古い作品の中の一枚だった。『室内風景Ⅱ』がそれで、カンヴァスには油彩で中世日本的もしくは中国的な室内風景が適当なコンポジションによって描かれている。そこに描かれた2重3重の脱中心性が凄く印象的だった。不思議だったと言っても良いかな。そういう心への残り方。
帰りに自分の第三世界への認識の浅さを反省して何か良い本ないかなとミュージアムショップを見る。以前国立近代美術館で開催された『ブラジル:ボディ・ノスタルジア』展のカタログ購入。1200円と安かったし。アドリアナ・ヴァレジョンも参加していたこの展覧会、当時は全然知らなかったよ。ちなみに写真は『赤むけの白タイル』で、今回の原美術館には展示されてないからそこんとこ一応。

*1:この表現はあくまでもレトリックとして、ね。

*2:ここでいう西洋的美術性とは、それがカンヴァスを支持体とすることや描かれたタイルで覆われたその絵画内の空間などに始まり、果ては批評性それ自体をも取り込んでるんじゃないかと思う。最後のはまだ凄くあやういけども。

*3:ひどく大げさだw