僕はとある(ほんとに“とある”)広告会社に就職したわけで、まだ研修中の身を良いことに月曜から飲んだりしてた。別に飲んだからこんなことを書くというわけじゃないんだけどでもその勢いを借りて書いておくと、最近学科時代(大学時代)の友人の言うことやそのブログで言ってること、つまりは「自らが置かれた環境に埋没せずに、そこから身を引き剥がして俯瞰する視点が必要だ」ということを思うと、広告ってそれが凄く難しいんじゃないかと思う。広告ていうのはそもそも売り上げを目指すという点で同時代的でしかありえないわけだし、それとは多少方向を異にするブランディングを考えたところでそれが何十年と通用するわけでもない。けれど「環境からその身を引き剥がして俯瞰する」ことは確かに必要で、そうしないと単なる思考停止の一歯車に陥るのも目に見えているわけで、どうしたものか。まあどうしたものかなんていう普遍的な立ち位置については今の僕には分からないけど、単にどういう広告がなぜ良くてなぜそれを自分が作りたいかとかは考えておこうかと今思う。それをどう歴史に(?)位置づけるかは将来の僕に投げたい。といっても現時点でクリエイティブに行くのはどうやらかなり厳しいってことが今日分かってしまって今かなり凹んでるのだけど。あーあ。
いやえーとそれはともかく、広告ってのは企業資本と密接に結びつくから歴史性が見出しづらいのかなとか考えると、建築(=僕の学科)はそれがどうやら薄いのだと気付く。歴史に残る建築は比較的匿名性が低い。非作家性という作家性も存在するくらいだ。これからも建築に留まり続ける友人には、出来れば“建築のみの歴史性”からも抜け出してほしいと思う。多分、建築てのは個人の世界観の外側にある世界として“建築史”ばかりが見えてきてしまうところだから、社会を考えているようでいて結局は建築史の中での自分の立ち位置しか見えてこない狭い世界でもあるのかもしれないのだということを、昔建築を(多少は)学んだ人間としてここに記しておきたい。建築の、住生活を担うという側面とそれを包括する表現の側面には絶対的な隔離があることを今直感でしかないけれど凄く強く感じているので、“住”を社会性というエクスキューズにすることなく建築を作り上げてくれたらと思う。
飲んだ勢いを借りてというエクスキューズと共に。笑い飛ばしても良いよ。