エノモトユキ

19:00に慌てて会社を出て19:30から、振付:コリー・ベフォート、出演:エノモトユキ 『The Canopy』@神楽坂die platze。2ヶ月振りの舞台、4ヶ月近く振りのダンスだっただけに心躍らせつつ臨んだものの、寝た。眠気を堪えていると眼球がブレるように震えて薄暗がりの舞台に演者の残像を氾濫させつつ意識が霧散し落ちるってのを繰り返していて、ようやく意識を取り戻したその5分後くらいには舞台は幕を閉じていた。30分程の短い舞台。
床に浮かぶ月明かりのような光に目を慣らされることで、その光が消えた後には暗いギザギザが視界の中央に浮かんでいるはずなのに、それが浮かんでいることには白い服を着た演者がそこを横切らなければ認識できない、ていうその“入り”は素晴らしくて一人盛り上がる、はずが、直後から睡魔に負け続ける。うつらうつらしながらもその大部分目を開いてはいたが、それはまるで夢のように記憶もなにもすっかり消え入る。昨夜空が白むまでフォトショ向かってたツケか。
とはいえ断片を掻き集めれば薄らとだが全体像が浮かぶ。
その微かな手懸り/手触りと後悔と意地でアフタートークに残る。個人の内的葛藤を素直に表したというその解説はふーんて程度だけど、進行や観客からそんな直截な質問を投げかけられても臆面なく「Yes」と答えるコリー・ベフォートには色々文化の差を感じたりする。もちろんそんな幸福な表現欲求に対する疑問は思うけれど、それよりただ解釈の保証を求めるだけのこちら側(鑑賞者側)の態度に対する疑問をより強く感じる。それに気付いてか、アフタートーク後半はコリー・ベフォートも「あなたの感じたことが重要だ」というようなこと何度か言っていた。

でなんとなく『夏への扉 -- マイクロポップの時代』@水戸芸術館を思い出したりしていた。個とその至近の共同体へといま目を向ける時、そこから何かを語ろうとするならば制作者の“その先への意思”を(勝手に)読むしかない。いや読まなくてすらよいかもしれない。いまという時間の中に位置づける作業自体が重要だ。実際との断絶などどうでもよいのではないか。なんだかどんどん思考が浮遊して、解釈し続けざるを得ないこと自体が嗚呼“浮世のさだめ”だなあとか思っていた。
しかし“今という時間の中に位置づける”とか言うとそれはやはり社会との関わりを見出すことなわけだから、(また水戸芸術館だけれど)昨年の『ライフ』展やついこの間行ってきた『ヘンリーダーガー 少女たちの戦いの物語 ― 夢の楽園』@原美術館などは、だからこそあのなんともいえぬもどかしさを感じたのだろうかとか今思う。いや、ヘンリーダーガーはちょっと違うかもしれないけど。