四半世紀を下手に生きてしまったツケが廻ってくる。と書くのはいかにも大袈裟だが、それくらいに言っておくのは誰のためでもなく、僕のためだ。僕はエゴの塊に過ぎない。汚物を垂れ流し咽るような腐臭を四方に放ちながらもしかし自らはそれを芳しく感じただ陶酔の中を生きてきた惨めな獣。己の内に潜む飼いならしていたつもりの獣は実はとうに内に潜むことをやめ、対峙し直視することで隷属させたはずのそいつはただ直視したかったという願望が生んだ幻に過ぎず、既に僕という全体を同化して外へ外へとその存在を現していたらしい。それは当初堅固な鎧のように僕を守りはしたけれども徐々に潰され磨り減り風化していく。それが守ろうと覆っていたものはどこまでも内向きな視線にすぎなかったのだから、境界の内外の圧力差は境界自体の強度など意味を成さぬ程絶対的に存在していた。結果惨めな獣の骸を纏う、腐敗し窄んだ鬼灯のように僕は在り、しかし自身の腐敗が生む微熱を晴れの光のように錯覚し続ける。
そしてある日、あたかも今気付いたかのようにはたと外界を見据える。
なんてのは、駄目だな、本当に卑怯だ。一つの戒めとして書き出した言葉だったけれど、やはり本音と建前とそれらへのアイロニーが生むスパイラルを抜け出すことを他者に求めるのには無理があるか。ダサさは当然引き受けるつもりだが、しかしそう言ってみせることもやはりスパイラルに陥らざるをえない。ただ、何かをここに残さざるをえないというのは間違いのないことで、そして今回に限っては、一度書き始めたらそれを消すことは許されないということも。