其の一

thirsty

どんなことですらも引き寄せて焦りに変換する何かが芽生え、それに呼応してどんなことをも俯瞰する極限の、とまでは言わないにしてもある強さを伴う冷静さに覆われた堅固な諦念を生む何かが生まれて、その両極間を振り子のように、しかし錘としてではなくその錘をどこかから支える糸のようにただ外界から届いてくる力を伝え続けるポンプとして在ることで自身の糸という形状が際立ち完成した存在としてはじめて現れるような、そんな在り様で僕は僕を捉えつつある。なんて、今キーを叩きだして初めてこの手が打ち紡ぎ出した言葉だけどさ。全くしょうがない。
なんでだか分からないが頭の中でフラッシュダンスのテーマが流れてきて、これは結構駄目なんじゃないかと思う。まあその理由は実は分かっていて、会社の30代半ば〜後半の先輩達と80's musicのマイランキングを送り合うイベントが発生したのだけどそこで空気を読み違えたことだよ。つい本気リストを作ってしまい、例えばLeon WareやらPatrice RushenFairground AttractionにJazz Defektorsなんかを入れたものだから笑えないと真顔で指摘され、メジャーヒットのみで今日リストを作り直しなんてしていたからだ。全く好きではないからフラッシュダンスは入れなかったけれど、A-HAやWham!Culture Club、CameoにZAPP(正確にはRogerだけど。)辺りを入れていて、それら80年代中期の曲たちがどこかからフラッシュダンスを呼び起こしたんだろう。
それこそ振り子のような反動で、というわけではなく今日はHousemartinsの『Now That's What I Call Quite Good』を聴きながら帰ってきた。必要に迫られてという言い方は違うけれどどう違うのか説明のしようがない切迫の中で帰り際に購入した『デッドエンドの思い出』を、駆け込めば乗れただろうメトロを切迫の反動で現れる諦念の促すままに見送り、走り出し加速することで直線の残像を連続して残していく車両の流れに逆らうようにして定位置までホームを歩いた先のベンチに腰かけて、開く。そうして意識は250枚ほどの紙束の奥へと向かっていて、やがて来たメトロにようやく乗り込むも覚めないまま。しかしどこだったか、例えば“セックス”という言葉が現れたところだったか、それは恐らく物語の一つの転換点でもあったのだけれど、そこでふと覚めた意識を狙いすますように届いてきた音が「Flag Day」のイントロだったあの瞬間の隠喩にまみれた衝撃は確かなもので、その後再びあちら側へと潜らせた意識を起こした降車の瞬間、今度は「Happy Hour」*1が流れ出したものだから全く諦念も焦りもない、さてこれはうろたえる場面だろうかと考える素振りすら頭をよぎる、どうしようもない気分になる。
幽霊のように薄く・・・とは、なれそうにない。まあまだ読み終えてないけれど。で、読み終えたけれど、ならなくて良いのだね。もしかしたらそっちの方が難しいかもしれないな。

*1:ここでの「Flag Day」は悲哀の、「Happy Hour」は無邪気で淡い幸福が皮肉にすら感じられる、そんな象徴っていう位置づけ。単純に曲の印象なので、全く大したことは言っていない文章なのです。