泣かされたけどさ

10日、シゲキさんの告別式だった。5日、病院に向かったものの彼の最後の時には間に合わなかったけれど、まだ(比較的)血色の良い彼の最後の姿だけは眼に焼きつけ、その後そこに集まった人達で夜半まで高円寺で飲んでいた。午前5時頃だろうか、酒は回りつつも冷静さを保つ頭で「関根繁樹という人」というエントリを書いたのだった。ほとんど書き直すことなく、勢いで書き上げたエントリだった。それ以降、シゲキさんについて検索して来てくれる人が、のべ100人ほどいる(携帯を含めればもっと多いのだろう)。多分シゲキさんを知る誰もが思っていただろうが、彼はこれからの日本の音楽シーンを確実に変えるだろう人だった。もはやそれが想像でしかなくなった今、その変化は小さな領域に留まるものでしかなかったかもしれないと矮小に考えたとしても、しかし確実な足跡を残していただろう、それだけは確信できる、そんな人だ。「やってやんべよ!」「とりあえず声出せ!」、そう言っていた彼はしかし、今思い返せばがむしゃらな根性論者などではなく、自分が信じる世界の中で切ないほど何かに追い立てられるように生きていた人だったんだ。だからこそ皆彼を信じ、愛していた。彼を失くして皆が感じた悲しみはただ愛する人を失ったというだけではない、もっと大きくて複雑な喪失感の伴うものだったと思う。そして、だからこそ改めて、または新たに、何かを決意する人も多かっただろうと思う。
5日の僕のエントリは、「インターネットにこんな投稿がありました・・・」と、図らずも告別式で読み上げられてしまった。もっと何か、上手く残せなかっただろうか、そんな思いで今これを書いている。しかしこうして何かしらの形を与えれば与えるほど、捨象される何物かがあることも切に感じていて、それも悲しい。