持ち帰っては放置する仕事の端くれ以外には、久々に何もやることがない夜。フォトショは暫く遠ざけたいけど、今思い出したそういうわけにもいかなかったんだそういや。ま、えっと、そのうち。
昨日立ち読みしたスピリッツに掲載の浅野いにおの短編『東京』はとても感傷的で、その一見して分かる感傷を“浅い”として批判されたりもすると、作中の地方出身の漫画家(=浅野自身だよね、てことで言えば。)は問われるわけだけど、でも恐らくその“浅さ”は感傷的すぎる故に感じられるんじゃなくて、浅野作品の登場人物がみんな一様な諦念を持って社会に臨んでるっていうそのドライな均質性の分かりやすさへの批判なんだろうなと思う。
その均質性の中で主人公が諦念を再度自覚したり、そしてぎこちなく受け流したりする微妙な立ち回りが呼ぶ読者の共感は単純ゆえにやっぱりちょっと危険だろうし。主人公が語ることのない『おやすみプンプン』なんてその極地なんじゃないか。
そんな中で、自らを主人公として物語に放り込んだ『東京』は、何なんだろう。何か分かったつもりで書き出したんだけど、書いてるうちに分からなくなった。けど読者(=僕ら、なわけだけど。)に何か訴えてるよね。なんて言ってしまうのもリアクションとしてどうか、というか気持ち悪いよなあとは思うものの、浅野作品を読みながら常にどこかで感じていたあの危うさを紐解く一つの足がかりになる気はしたんだ。
『東京』の主人公である漫画家が帰省した地元での地方特有の同窓会の雰囲気とか、実感として理解できる*1から、そのあたり含め自分を晒す行為に何かしらの手懸りを感じたのはホントだろう。

*1:出身県が一緒ってのもあって。県内も広いとはいえ。