iPodから流れる現代の生音エレクトロニカを聴いていて、そのハリのあるベースの響きに唸りつつ、それはたぶんここ最近(音楽に関して僕が言う“最近”てのはここ10〜15年くらいのイメージで、それって実は全然最近じゃないなとは分かりつつ)の音響・録音技術の進歩での音の再現性の高まりによるもので、音楽体験はそれに伴って実は劇的に変化してるんじゃないか、けれどそれは“最近”を一括りにしてこそ劇的と感じられるもので、地道に音楽を聴き続けている人にとってはあまりに自然で当然の変化だし、それほどのめり込みはせず、人生のある時期の音楽への接触が結局は人生のうちのメインの音楽体験になるような人にとっては気付きようのない変化で、そうしてスルーされていく事実は勿体ない。というか、体験のデザインというか場のデザインというか、何かもっとやりようがあるような気がした。もちろんその何かってなんだよってことになるんだけど。
そして最近(こっちはホントに最近)のアルバム全曲フリーダウンロードにしてライヴ集客やその他周辺でバックを得るっていう流れとか、そんな視点からの語りってのもあるかもしれないと、凄くぼんやりとながら思っていた。
こないだ知り合いのコが話していた「ClassicはiPodに取り込んだ瞬間にもうClassicではなくて、Pop musicだ」という言葉を思い出して、そこに常々僕が思っている「Classicは狂気の音だ」ってのを掛け合わせれば、録音の音質の優化と同時にしかしそこに否応無く立ちはだかる音の劣化との狭間に垣間見える微かな狂気の再現性が、人をライヴへと駆り立て、ライヴマーケティングを後押しするってことになる。
これ、足りない言葉や穴が多いのも分かっているけど、大括りではそういう語りなんじゃないか。
なんてことを考えていたのは今日深夜帰宅してから、再び外出してセブンに向かった帰りのことだけど、明日観る岡田利規演出の『友達』@シアタートラムを一月以上前にネットで精算はしていたもののチケットに引換えてないことに気付いて受け取りに行ったからで、これ、もし明日家出る直前なんかに気付いてたら危なかった。精算はしてるから劇場に入れないことはないだろうけれど、そういうのってちょっと自分が嫌になるじゃないか。あぶなかった。