金魚(鈴木ユキオ)『言葉の先』

13日昼、金魚(鈴木ユキオ)『言葉の先』@アサヒ・アートスクエア。金魚の単独公演は2006年にこまばアゴラで見て以来2度目。
横長のアサヒアートスクエアの空間を長辺で2分した片側が舞台となるが、段差は設けられず観客と地続きの空間で鈴木ユキオらが踊る(動く)。その空間は、例えば吾妻橋ダンスクロッシング等で使われる舞台空間よりもずっと広く、ただその空間が目の前にあるというだけで一定の迫力を感じるような場。演者は鈴木ユキオ含め4人、うち男女が2人ずつ。1枚のステンレス板(←多分)や太く長いチューブが放置されたように置かれる以外は何一つ手の加えられていない黒い空間で、音と照明を巧みに用いながらその4人が踊る。踊る、というより、駆動する、といったほうが観賞のイメージに近いかもしれない。冒頭から4人(とはいえ、やはり鈴木ユキオの登場がほとんどだったけど)の動きは暴力的に緊張した不自由さを伴っていて、それは制限下の機械的駆動というような表現がしっくりくるものだった。分かりづらいかもしれないけど、例えば“暴走をプログラムされる”というような自己矛盾のもとでの半自動的動きが見てとれたように思う。男同士が格闘するように組み合い倒しあう場面も、“倒しあう”というプログラミング下での暴走を表現するというような、自走する身体と踏みとどまる思考との軋轢が感じられて、結構切ない。あまり上手く言葉に出来そうにないので単純化するとすれば、女性は言語的制限を、男性は身体的制限を与えられながら駆動する舞台だったように思う。
冒頭とラストでは鈴木ユキオの動きは全く違っていて、当初の不自由さを感じさせる動き(=制限/抵抗下での機械的駆動、とでもいうような)から、若干ながらそこから解き放たれた穏やかで自在な動きへという変化で表現できるそれは、タイトル『言葉の先』へのブリッジとなるのだろう。僕なりに捉えればそれは“自走する身体と思考を越えて獲得される何物か”ってことになる。で、なんなんだそれはってことだ。でもやっぱり“自走”は止めなきゃとは思うよね。
その後、下北沢で友人と合流。あなピグモ捕獲団YOUTHFUL DAYS YOUTHFUL DEAD』を観る。まだあまり演劇は観れていないからか、表現の過多と閉塞感を感じつつも、ああいう現場感を感じられたのは心から良かった。