SUMIKA-House before House

東京ガスSUMIKA PROJECTレビュー二つ目。藤本荘介の「House before House」。
1辺約2.5mの箱が10個、置かれ、重ねられ、そしてずらされることで、それぞれの内部とその間に様々な空間が作り出される。とはいえその多様さは即ち均質さでもある。
ある空間に人が暮らすとき、自ずとそこには、重心とでも呼べるような場が出来る。それは何かの行為が集中して行われる場であるかもしれないし、単に人がそこにいることが多いという場かもしれないけれど、とにかくそんな溜まりの場だ。しかしこれはその空間がそれらを同時に内包するほどの大きさを持っていた場合のことで、仮に空間全体が小さくなっていった場合、そこで行われることはかなり限定的になってくる。それを突き詰めて生まれる空間が小さな箱であり、「House before House」はそんなほとんど行為の単位空間ともいえる箱を敷地内にばら撒くことで作られている。
そんなふうに眺めれば、このイエには重心は存在しない、と言えるだろう。それぞれの箱が、重心を生じさせる何かしらの行為に支えられて存在していて、それら重心たちが分散するこのイエは、だからこそ均質だと言える。もちろんこの均質という言葉は各行為の比重が等価であるという意味で、だからこそどこにいても楽しい多様な空間が生み出される、ということになるのだけれど。そしてそこに内外部の差異はほとんどない(というか、その差異は意味をなさない)。各箱が支える何かしらの行為はその序列が消し去られほとんど等価になることで、やがてあらゆる行動を等価なモノへと変容させるから、そのあらゆる行動は内部であれ外部であれそこに佇むその空間と紐付けられた“行為”へと昇華される。
その意味でこの「House before House」は昨日のエントリで語った「宇都宮のハウス」とは対照的で、「宇都宮のハウス」を“外部を制御する手法によって、内部の時間を創造している”と言ってみたのに対し、こちらは“内部を制限することで、(内外に関わらない)空間を創造している”と言えると思う。そこでは“時間(の流れ)”みたいなものはあまり重要ではなくて、ふとした瞬間の空間の再認識こそが重要ってことかなと。

「宇都宮のハウス」の奥の「House before House」。