gelitin @ TKG

もう観てから随分経ったけど、4月25日の土曜日に清澄白河のTOMIO KOYAMA GALLERYにてジェラティン(gelitin)による石庭のインスタレーションを観る。
龍安寺の石庭のような庭と石の景色がそこには用意されているのだけど、その“石”にあたるものが、生の人体に置き換えられているというインスタレーション。これはいつも観れるというわけではなく、会期中毎土曜の16:00〜19:00だけボランティアスタッフにより石=人体が再現される。
ジェラティンの活動を果たしてどれだけ生真面目に捉えるべきかっていう生理的反応は置いて、意味は鑑賞者によってこそ生み出されるという立場をとるとすれば、石が人体に置換されるってのは凄く象徴的で面白い。それはもちろん石という死を生に置き換えたとも取れるし、だから停止と変化の対比とも言える。また龍安寺の石庭を考えれば、そこには植物もなく、空間に取り入れられる変化は大気や光と借景としての緑のみ。石庭それ自体は変化することなく存在し、またそこに置かれた石の数が15(=満ちる数)であることから、石庭を“完成形”として捉えるとすれば、そこにはそれが完成した瞬間が切り取られ停止させられていて、完成の瞬間ののち即崩壊へという無常への道筋が眼前に控えている、そんな張りつめた緊張が漂う場と言えるのに対し、ジェラティンによる石庭(人庭)は既に人体という生を内包している点で変化の連続を目の当たりにするという異なる緊張に満たされている。それは本当に目の離せない空間で、死にゆく人体という生を、瞬間瞬間で切り取り続けるようにして強制的に意識させられる、そんな空間だった。
そしてそれが、辛さや嫌味を伴わずに仕上がっていたのはジェラティン故と言うべきか。つらつらと考えさせられつつも、しかし結局は笑ってしまうような場であったよ、と言えるのは今回の展示の間違いない“良さ”だったと思う。