ミクニヤナイハラプロジェクト『五人姉妹』@吉祥寺シアター

五人姉妹

27日、ミクニヤナイハラプロジェクト『五人姉妹』@吉祥寺シアター。とある家のなかで、母(&父)のいない5人の姉妹と1人の執事がいつも通りの一日を無碍に過ごす、そういう物語。と書いてみて、もっと何か起伏はなかったかと思い返してみれば、舞台上には訪れない“明日”に親しい親戚の葬儀があるというその1点がかろうじて出来事としてあったというくらい。とはいえそれは明日に控えていることであってまだ訪れない出来事、やはりほとんど何もなかったと言えるとすれば、舞台上の時間は恐らく“いつも”とほとんど変わらぬ時間が流れていた。思考停止するようにして寝続ける者や、部屋からなかなか出ない者、この家を出るといいながらも出て行かない者(執事)など。そうした時間を眺めれば、“過去”からそういった時間が流れ続けているであろうことをまず想像する。ではそんな時間のなかで何故、舞台上に提示される“まさにこの時間”が切り取られたのか。そこにある出来事はほとんどいつもと変わることはないのというに。

それは恐らく、その時間が実はいつもと変わらぬ時間ではないからだろう。明日に控える葬儀のその前、つまり舞台上の今日のその前、昨日以前に確実にあったであろう、親しい人の死に直面する時間を経ての“まさにこの時間”である。提示される振舞いは一見変わらないが、昨日以前と明日以降のそのあいだの時間こそが実は最も大きな変化の只中にある、ということ。明日以降も、もちろん変わらぬ振舞いは続くのかもしれない。けれどその変わらぬ振舞いはただそのように見えるだけで、ほんとうは決定的に異なる何かに変容している、そんなことが想像される。しかしそれはもう変化のその後のこと、そこでは新たな“いつも”が獲得されているとも言える。だからこそ、“まさにこの時間”が最も大きな変容の只中にある、そんなことが提示されていた舞台上だったのだろう。

と書いてみたところで、「で?」っていう気持ちもあるといえばあるのだけど、公演の際にアンケートと共に配られた概要の紙に載せられていた矢内原美邦中原昌也のインタビューで、「今の人はやけに納得したがる」というようなこと仲原が言っていて、それは確かに僕もその通り。けど何かを納得したことで、「以上!」とそれを過去の引き出しにしまうなんてことを求めてるわけでもないから、今回の舞台が何かに“直面した時間”だとすれば、僕はこれからに控えるだろうまた新たな“直面する時間”に向けて、これをきっかけとした“変容の只中”にあり続けられることになる。そして、そうありたいとも思う。


まあ凄く単純な語りになってしまったけど、そんなわけで、面白かった。相変わらずの台詞の量と速度は予想されたことだったから、聞き取れないところは気にせずそのまま追おうともせずに受け入れていたら、本当に音楽のように感じられて、その音楽の向こう側にある身体とかを眺めるなかで感じられる何物かを蓄積するようにして舞台を観ていた。これは結構心地良い体験。僕は以前“ニブロールは現代に生きすぎていてそれがあらゆる要素の過剰さに繋がっている”(=矢内原美邦は現代に生きすぎていて・・・)と書いたことがあるけれど、その現代性に触れることは楽しいし心地よい。
て、これ何か含意があるようでいて自分でもその先に何があるか良く分からない言葉だけれどもね。

舞台を観た後、何だかボーッとしていてすぐ帰ってしまったけれど、以前の戯曲とか買いたかったなあ。『青ノ鳥』とかね。舞台上と戯曲との隔たりは、矢内原美邦の場合どれほど立ち現れるか、興味ある。
あと、以前買った『3年2組』のDVD、まだ観れてない早く観なきゃ。