世界を変えるべきではなかった?

12日、吾妻橋ダンスクロッシング@アサヒアートスクエア。吾妻橋〜も過去何回か観ているけれど、もうダンスというよりパフォーマンス全般のイベントになっていた。ダンスを超えて“身体”を観るイベント。それももちろん“動き”ではなく、声や佇まいまで含めた“身体”。全体的にだらしない身体が多く、何かの習熟を経たかのように見える動きの方が異様に見える、そんな場。
ハイテク・ボクデスはもはや身体すら無くなって、良く分からないことになっていた。しかし(そもそもボクデス自体のパフォーマンスもそうであったような)だらしなさをさらに超えたところにあるモノだけでのパフォーマンスという立ち位置の興味深さは確かに感じる。
contact Gonzoは相変わらずストイックな殴り合い。合間に使い捨てカメラで写し取られる一瞬を積み重ねるごとに、そのパフォーマンスはこちら側に依存しない孤立を深めていくように感じられた。
チェルフィッチュホットペッパー』。3人の派遣社員が順番に語っていく、会話なのか独話なのか分からない語りの場。惰性の動きが誇張され繰り返される様は、単なるだらしなさではない習熟も伴った明らかな一つの到達点で、そろそろその先が気になってくる。
ほうほう堂。ほうほう堂を観るのは随分久しぶり。ほうほう堂らしい静的な場から、やがて音も伴った動的な場へと遷移していったパフォーマンスだったけれど、その動的な後半は静けさと高揚感が同居するような不思議な空間だった。敢えて言えば、その動きは康本雅子的だったのだけど、しかしそれが感情に訴えるような高揚だけではなかったのは何故か、と考えると、それは彼女らの身体のスケール(=小ささ)ていうのが大きい。まあちょっと単純だけどね。
快快[faifai]。ジャマイカ発のジャークチキンの焼ける薫りを届けるよっていう、ホントただそれだけ。良いか悪いか分からないけど、ああいうのは場の空気を持っていければそれで良しっていうモノだろうから、だとすればあれで良し、ていうことになると思う。
鉄割アルバトロスケットは細切れの演目オムニバス。だらしなさの極みともいえるくだらないパフォーマンスで、それはそれでとても面白い。
いとうせいこうfeat.康本雅子『VOICES』。これは素晴らしかった、と振り返って今思う。何よりいとうせいこうの語りの在り様とその言葉は、短いながら今も確かに“ここ”に残っている気がする。9.11後の世界に対して「世界を変えるべきではなかった!」と叫ぶそのメッセージを、僕らはどう捉えるか。一面で凄く正しいと思えるとすれば、変わったのは何かをもう一度考えなきゃならない。そんなの全然整理できないけど。
吾妻橋のスタッフの人(桜井さんどうか。)、YouTubeにアップしてくれないかな。
Line京急は山懸太一と大谷能生のユニット。今回はそこに松村翔子も加わっていた。山懸と松村はチェルフィッチュにも参加している二人で、いかにもそれらしい崩れた身体性を見せていた。やっぱり、山懸太一のいかにもくだらない動きや表情や、そのほとんどが良い。
飴屋法水『顔に味噌』は、国籍も多様な20人によるパフォーマンス。これ、ちょっと言葉にできない場だった。よだかの星を引用したり、ロミオとジュリエットが出てきたり、フェンシングがあったり、出演者の自己紹介があったり、その裏や表で顔に味噌を塗る女性がいたり、「味噌」と「ジャム」が入れ替わったり。
何かのピークがあるわけでもなく、比較的淡々と過ぎていった時間だったような気はする。総括はしづらい場だった。しかしオムニバス公演だということを分かった上で敢えてその長編が観たい作品はどれかと考えれば、それは「いとうせいこうfeat.康本雅子」と「飴屋法水」の2つ。なんだけど、イベントとしての特徴的な身体性を見せていたのはその他の出演者だったとも感じるから、何か異なる方向性が露骨に現れぶつかっていた場だったのかもしれない。“意味や目的”と“身体”が乖離してきてるのかも。