『On a Knife Edge』@京都芸術センター

On A Knife Edge

こないだの日曜に京都芸術センターで観た「On a Knife Edge」について。具体的には、そこでのHyon Gyon(ヒョン ギョン)の展示について。

ヒョン ギョンの展示は、作品を構成するメインは絵画となっていて、ついで布が絵画に張り込まれていたり、インスタレーションとして映像や布、さらにその他(ナイフのようなもの)が使われたりしていた。
展示のフライヤーによれば、作品の主なモチーフは、出身地の韓国に深く根ざした巫俗信仰に見られる儀礼「クッ」とのことで、この儀礼を司るムダン(巫堂)は圧倒的に女性が多いらしい。
そのモチーフの中で、ヒョン ギョンの作品は空間インスタレーションや映像も用いつつ、しかし数としては絵画が多い。その絵画表現の中で感じられるのは、表現のモチーフとして“糸”というモノがあるということ。

例えば、恐ろしい表情をたたえる人智を超えた何者かを演出する際の炎の表現も、またその体内が裂け現れて表出する禍々しい内蔵的表現も、それぞれが数多の極彩色の“線”=“糸”によって為されている。
そして、糸はといえば、未だに女性が主に扱う素材(の象徴)、であると言えると思う。また糸は、その素材としての単体での弱さと、それが集合した時の強さ(確かさ)も同時に兼ね備えている。そこに女性性を重ね合わせることで、現代の組織(システム)とは異なる強さの存在まで示唆するような。

ただし、その“糸”は実際(リアル)にはほとんど扱われない。あくまでも、糸のように感じさせる絵画表現、に過ぎない。

実際に“糸”を素材に使うことは既に現代美術においてなされているなかで、しかし糸的な異なるモノであるということ。
それは、単純な女性性は既に表現の一素材として置いた上での表現であるということ。その上で、展示空間内で映像が映し出されていたスクリーンの裏面には、その布地に数多くのナイフが突き刺されていたことを思い起こす。
リアルな糸は、切断によって容易にその強さを失う。それは女性性としての強さを失うことと取れないか。
そして、その際の女性性を失うことを、積極的に手放すことと捉えることも可能だと思う。そうして新たな視点を、男性性からではなく、女性性を手放したその先の中で見出そうとすること。

ここからは僕個人の拡大解釈になるかもしれないが*1、性とは一つのシステムに等しい。男性性が示唆するシステムの在り様、女性性が示唆するまた異なるシステムの在り様。そこに対して、性性を手放した上で対峙すること。自らの出自を明らかにしつつ、そこから放たれた存在表明を(今)行うこと。
作品における痛々しくも鮮やかな表現には、そのような複雑さを感じ取ることが出来るのではないか。


例えば震災後、懐疑があらゆる側面へと投げかけられる中で、僕はヒョン ギョンの展示を、そうした表現として受け取った。
“正しさ”が何かもはや“良くわからないもの”になってしまっている中で、鑑賞者がより能動的に意味を受け取り、意味へと働きかける行為が恐らく標準になっていく(だろうと僕は思っているが、)のだとすれば、まずは自らの実践の意図も込めて。

*1:感想なり批評なりレビューなりは、そもそもそういうものだけど。