大阪散歩

そういえば、大阪に来てからあまり散歩をしなくなっている。
大阪は小さい。それはもちろん、東京の都心部に比べて大阪の都心部は、という意味で。
一方で大阪には様々なエリアがある。特に大阪市内であれば大体駅一つひとつが街として独立したイメージを確立しているから、“リアルな面積としてのエリア”は小さい中で、“イメージでは区別されるエリア”は凄く多様にあるといった具合に。
その“イメージとして区別されるエリア”=“エリア性”の多様さで言えば東京にも劣らないんじゃないかと思うくらいだ。僕の昼間の社会人活動を通じても、大きくはないエリア間でのはっきりとした違いを実感することは多い。
小さくて多様な街、それが大阪なのかもしれない*1。その多様性も、駅名がすなわち街名になり、それが確固たる街のイメージを沸き起こすような明確さを持つ「原色の多様性」なんて言えるようなそれだろう。


ちょっと前置きが長くなった。…そう、散歩の話だった。
そんな大阪に来て僕は散歩をしなくなった。大阪は小さい。一方でそのエリア性は多様だ。
ふと思い立って街に出、歩き出す。そうするとすぐにエリアを越えて(越境して)しまう。象徴的なイメージを持つAのエリアから、また異なる象徴的なイメージを持つBのエリアへ、ものの10分で行き着いてしまったりする。
けれど散歩というのはその中間を楽しむものじゃないか。もっと言えば、エリア間の中間で在り続けることこそが散歩の楽しみだったりするはずで。自分の見知ったエリア性とは異なる何かの発見によって、それまでのイメージを上書きし続ける快楽、または新たなイメージを独自に創り上げる快楽。
既存の象徴的なイメージには属することの無い中間領域の発見によって、既存のイメージを突き崩しては再構築していく行為こそが散歩の楽しさなんじゃないだろうか。ていう。
その楽しさを小さいエリア性が潰してしまうなあと感じている。(という一方で、さらにその中間を見出せよて声も響くんだけど)


大阪はとても良く細分化されている。それが狙ってか自然にかは分からないけれど。その細かさ=多様さの中で時間の感覚は、ちょっとだけ狂う。細かさがそのまま情報量になるとすれば、少ない行動の一方で情報量は多くなるわけで、それだけメモリは費やされ、時間は進む。
その時間は、散歩を楽しむにはちょっとだけ速すぎるんだよなあ。

*1:あくまでも東京比較で。当然、さらに地方都市と比較すれば断然大きいし。