書くことの機能と、書かれないことの可能性

ブログを書かなかった間に観たり/行ったり/体験したりした色々なことについて外部記憶たるここに残しておきたい想いはありつつ、既にだいぶ時間が経ってしまったそれらを掘り起こすのも大変で……なんて所からすでにして風化しつつある何事かを感じさせては無駄に焦燥を募らせる。そんな焦燥が深いふかい意識/無意識に混じり、沈む澱(おり)となってはその透明度を曇らせていくよう。
ここに何かを書くっていう行為は、意識を澄んだ状態で維持し透明度を保つ、思考のデフラグみたいなものなんだろう。


その一方で、書かれなかった何事かがあるということ自体はとても当たり前のことで、その何事かが特別なことであろうとなかろうともそれらは確かにあった“はず”という点で等価であって、仮に、書かれなかったとあるひとつが“特別なこと”であればあるだけ、その他の書かれなかったたくさんの何事かも、書かれないからこそ同等の“特別さを持ちうること”でありうる(そう捉えうる)という可能性と想像力の連鎖に、ああ日常はなんて素晴らしいとか言いたくなる瞬間もある。