光の魔術師

Lucellino

私は自らのデザインの独裁者になりたくはありません。持ち主に自由に解釈して欲しい、そういう意味で私と使い手は共同デザイナーなのです。美術作品を前にして「ああなんて美しいんだろう」と嘆息して、崇めるだけで終わる人がいます。与えられたものに甘んじ、信奉者になるのではなく、より能動的に、自由に自らの解釈を試みるべきです。皆、異なったイマジネーションを持っているわけですから。    ―インゴ・マウラー―

2年振りくらいで買った装苑に掲載されていたインゴ・マウラーのインタビューより。この意見、というか鑑賞者の解釈へと作品(の意味)を開く側の意見はいろんな人がいろんなとこで言ってるわけで、そういった立場への賛成の意を表してみようと手元にあった装苑から引用。やっぱり自分は、そちら側にいる方が気が楽だ。でも、インゴ・マウラーについては語らない。なぜなら、「持ち主」ではないから。そんなのは酷い屁理屈だと言われても、それくらい彼の作品/プロダクトは高い。写真の『Lucellino』で約8万。電球に羽根がついただけなのに。でも“電球に羽根がついただけ”だからといってじゃあそんなものは自分で作れば良いとは、当然ならない、多分ほぼ完璧に複製できるけど。で、そのことは直観的に分かるのだけど、具体的になぜ自分で作ったものでは駄目かってのがどうも僕には判然としない(それが“コピー”だからとかじゃなく)。とりあえず、自分で作ったものには社会的な“語り”みたいのが付随しないからってのが一要因ではあるだろうけど、もっと明解な根拠があるだろ、と。でもそれが分からない。なので、そもそもインゴ・マウラーの作品自体をもっと疑ってかかろうと顧みてみる。そこに湛えられているのは巨匠的な自由奔放さなのか、それともアート〜プロダクト間で浮上したダダ的素振りなのか。
まあ良く分からないんです今は。