いつもこうして1日遅れで書かれるdiaryには、僕の時間感覚が素直に表れているよ。過去は他者で、それが楽だ。
なんていう言葉遊び。
昨日、正午にシャワーを浴び、荷物を2つ受け取ってからしばらくザッピングの連環に陥りつつ、どうにか断ち切って外出。清澄白河のAMPGへ。第16回目の展示『Bombing of a dahlia』。タイトルに掲げられた“Bomb”が示すように、ダリアが花としての命を終え朽ちるその瞬間に“爆破”という瞬間の行為が掛け合わされることによって、文字通りその命が燃え尽きる、その最後の一瞬にこそダリアの生(=美)を見出すというコンセプトの展示。そして昨日は枯れて朽ちかけたダリアがちょうど爆破された日で、その瞬間には間に合わなかったものの、まだ火薬の匂いが残る空間に足を踏み入れる*1。展示の経緯を聴いてから見れば、そうかーと眺められるその空間に当初何の感慨もなかったけど、しばらく眺めていてふと思ったのは、これが展示なのか、ということ。爆破後の黒ずんだダリアの欠片や灰が床に散乱した様は、展示の概念を転覆するほどの強度も持たず、あまりに素っ気なく無に帰している。爆破という、花としての外的な死の瞬間に美(=生)を見出すとすれば、そのピークの前後、束ねられた花達がいかにも“作品”らしく完結している状態と、爆破され黒々と散らばる残骸の状態は、一瞬の美=生へと線形の時を進む/遡るための余韻に過ぎない。今までの東信の展示はといえば、花達が強度に完結したひとつの作品として(時の流れによる変化を意識から排除するようにして)立ち現れるか、または植物が否応なく朽ち行く様をこそ露わにするか、の両極にその時々で立っていたのに対して、今回の展示ではその両極に揺れ動くでもなく、新たな別軸へと昇華させたのではないか。
しかしそれは植物という対象を扱うのであれば必然的に行き着く自然な結果だろうとも、(無責任かつ安易に)思いもする。とはいえ、何かが凄く刺激される展示だったのは間違いない。というか、えーと、かなり面白かった。
と、さて随分言葉足らずだけど、これ書いているまさに今の時間も時間だし、まだ整理には時間が必要。これから折にふれ思い出してはもっと考えたい。
AMPGには東信本人がいて、上記の話をちょっとだけしてみたら違和感なく同意してもらえた。「コンセプト考えたとき震えた」「これ以上のものが作れないかもしれないとも思ってしまう」なんてことも彼は話していて、いやまだ行ける行ってくれと、今思う。
その後、弱々しくちらつく雨の中、傘買うべきか、いや耐えられるかってな小さすぎる葛藤を抱えながら表参道へ。嶋田洋書で仕事用の本を買い、それから以前気になりつつスルーしていた革のバッグを買いに南青山へ歩く。“革のレコードバッグ”なんて例えてしまえば讃えてるんだか卑下してるんだか分からなくなるけど、レコードも悠々入るそのバッグはとても良い。
SUSのRESPEKTでご飯食べて帰宅。RESPEKTは渋谷らしい客層で、そこに混じっているのが歯痒く心地よい変な気分になる。そこ、今さら何気取るんだよってとこだ。

*1:とは言うものの、鼻が働かず全然火薬臭に気付かなかった僕ですが。。。