久しぶりに山頭火の自由律をタイトルに日記。自然との関わりの中にその身を投げ出した独りゆえの哀愁を謳うことの多い山頭火の句のなかにも、こんな風にただ寂しいだけでなくその向こうに他人の体温を感じさせるような句もあったりして微笑ましい。
僕も同じ様に日本酒を傾けて遠い人を想おうかとしたのだけど、ストックしてあったつもりの磯自慢はそういえばつい先日飲み終えていてそれも出来ず。缶ビールはちょっと飽きたから、シメイでも良いからストックしておこうか。
土曜日、ギャラリーROCKET『Magazine! Magazine!! やっぱり雑誌大好き!!!』に行ってドイツの中古雑誌を数冊購入。横断的で日本では位置づけが難しそうな雑誌に目が行ってそれを買ったのだけど、様々な雑誌が休刊していく今の時代の流れの中にあってもっとも印刷物としての特異性(=オルタナティブの不在)を備えるのがやはり雑誌というモノだなあと強く感じる。その雑誌が倒れていく現状っていうのはつまりオルタナティブの不在がもはや単純な価値にはならないということなわけで、もっとモノとしての存在感を強める(アート/作品に近づく)のか、ソフト面を強化する(ゲームソフトのような極端な情報プラットフォーム性を備える)のか、そういう変化が必要なんじゃないかと思う。
とはいえアートにしてもゲームにしても、その向こうに存在する制作者と言える個人の価値の大きさに依拠するような在り方はあまりに単純で古い回答なのも事実で、さらにその裏で“個人”性をプロデュースする人/組織が必要だなあなんて考え出すとややこしくなってきて頭を抱える。
もっとすっきりとしたやり方があると思うんだけど。