朝、雨が降り出して、夕方には徐々にみぞれへと変わりそしてそれが一気に雪へと結晶していった日。タイミングの巡り合わせで、その移ろいの全てを透明なビニ傘の下で見守っていた。

7日日曜日に横浜美術館で見たチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』は、なんだかちゃんと観ることが出来ず、かなりの部分をうつらうつらしていた。疲れていたのはあるんだけど、それにしても舞台それ自体が徹底して無愛想で、(まあそれは良いとしても)さらには独白のような説明的台詞の連続に、ちょうどその時の僕の頭は付いていけず拒否反応を起こすように徐々に項垂れていったっていう。
だからざっくりした構成しか記憶にはもはや残されていないなかでも、しかし果たして岡田利規はどこまで行くのかっていうのが即座に浮かぶ疑問で、恐らく以前は問題提起であり得たあの舞台上の身体の在り様は今や一つのスタイルと化していて、その中で敢えてそのスタイルを捨てることなく究極的に突き詰めた先の針の穴のような出口を目指しているように感じられる所に何故か危うさを覚えてしまった。

今日は仕事の合間に寄った銀座のPOLA MUSEUM ANNEXで東信展『armored pine -鎧松-』を観る。パンチングメタルに覆われた松の姿はシルバーに輝くポリゴン的造形で、その“鎧”のない生の松の姿であれば際立ってくるはずの、木肌や鋭い葉に表れるより微細なスケールのディテールに漂う美が一切掻き消され、あくまで全体として捩れ天にも昇るかに見える暴力的な造形のアウトラインが強調されている。パンチングメタルの奥に覗く、そこに押し込められた葉の苦しさもあくまでも細部のディテールとして全体から切り離され、その時を止めている。
それこそ、あの固定された“鎧”は止められた時に等しいのだけれど、しかし植物は決してその時を止めて鎧の内部に留まり続けることはない。ちょっとだけでも頭の中で松の時間を進めてみればすぐに浮かぶのは、松が荒々しくその鎧の各所を内部から突き破り現れてくる姿であり、その姿は人の手で押し込められたシルバーのポリゴンのアウトラインの持つ美とはまた対照的に美しい。さらにそれらは、二つの姿のこちらが暴力性を担えばあちらが繊細さを担い、またその役割が常に交換可能であるような存在となっている。
この面白さは東信ゆえなのか、そもそも植物だからかなんて思いつつ、当然東信ゆえだなと妙に納得。あと、会場に漂う強い松の臭いは、その姿が鎧に隠されているからこそより強く知覚された臭いであって、それも僕にとっては一つの気付きだった。
唯一いただけないと思ったのはキュレーター(だったかな?ちょっと失念。)的な人の言葉で、東信の作品を“日本的美意識”といった辺りに引き寄せて語っているのはあまりに浅く、白々しくて残念な気分になる。