ここ2ヶ月程はすっかり非英語圏の音楽に心が奪われていて、自分でも不思議。以前「メロディーもリズムもちょっとなあ…」と感じた時があって、その時はノイズへと進んだ契機になったあの感覚が、今回は“英語圏”に象徴される音楽的形態を食い破る方向で現れたのだと思う。自然とラテン系の音を多く聴くことになっているけど、他にも欧州のルーツ系やらアフリカやらインド周辺やら、まだしばらくこの指向は続きそう。いずれmusicカテゴリで紹介すると思う。

華麗なるギャッツビー

夜、映画「華麗なるギャツビー」を観る。原作「グレート・ギャッツビー」が好き過ぎて訳者を変えては読み続けてる背景があるもので、果たして…と思いつつ、いざ観てみるととても楽しめた。それこそ映画というより元ネタを知っているアトラクションに逐一頷きながら乗ってるような。ファンタジックで演出過剰だったりチープだったりする映像や、数年前に一瞬火がついてすぐ消えてしまったエレクトロスウィングを思わせるような音楽使いに最初は首をひねったりもしたのだけれど、観るうちにやがて、その軽さ/あざとさ/儚さこそまさにギャッツビーを描く映画に相応しいと思い至り、全面的に楽しんでしまった。普段ほとんど劇場に行かないので相対的には見れないし原作好きバイアスもある上で、まあしかしそんなのは良いじゃないかと、そう思えてしまったなあと。

ミクニヤナイハラプロジェクト「前向き!タイモン」

ミクニヤナイハラプロジェクト「前向き

昼、ミクニヤナイハラプロジェクト「前向き!タイモン」伊丹アイホール。観るのは2度目で、1度目は2年前の2011年秋にKYOTO EXPERIENCEの一環での公演だったかと。今回の舞台もその前回とほぼ同じ内容、同じ3人の演者、同じ舞台装置だったと思う。
矢内原美邦の戯曲は基本どれも情報量過剰(特にセリフ面)で、それ故に理解すら投げ捨てざるを得なくなったりすることがあるその感じこそが良さだ、なんて面倒なことも言えてしまう側面もあるし実際そう思ってもいるんだけど、既に以前観た舞台を今日ひさびさにかつ2度目を観る機会を持ってみると、驚く程すんなりと入ってくるもので。
理解したとは言わないまでも、ある種の切実さとともに感じ入った部分があったのは確かで。特にタイモンが言い続ける「待つ」ことについて、そこにタイトルのような前向きさも希望も何も感じないんだけど、それが逆の推進力にもなったりするし、タイモンが持つ人格である“良いタイモン”と“悪いタイモン”の間で俯瞰する“普通のタイモン”のような視点にもなったりするするだろうし、てなあたりに。何事にも先手を打つように回り込んで、回り込みすぎた結果、全てが起こるさらに前で立ち止まり続けることになるのには共感したくないんだけど、そこにある切実さはどうにも知らんぷり出来ないから、せめて対処法くらい備えておきたいじゃないか。

結果、今までみたミクニヤナイハラプロジェクトの中で一番良かったんじゃないかと思えた。

道中庵

その後向かったのは高横須賀駅前にある道中庵(正確には「中」の字が違うんだけど)という日本茶専門店。数年前に兄に連れて行ってもらって以来、そのあまりの“美味さ”に衝撃を受けて愛知に行く度に足を運んでいるお店。大体どうにか年に一回くらいは行けている、と思う。表現が難しいし、その味の深みやそこで受ける感覚の複雑さを考えると安易に言葉を添えづらいのだけど、それこそ初めて味わったときの感覚をそのまま記すとすれば“脳が揺さぶられる”感覚であり、そんな味/香りである、とか、そんな大げさなことになる。冗談抜きでそうなんだから、ホント凄い店なんだよね。

大竹伸朗『焼憶』展

mcmlxxx2013-05-28

25、26日と愛知/名古屋へ。目的は常滑での大竹伸朗『焼憶』展@INAXライブミュージアム。2月からやっている展示だけれども終わりも近づいた中で、巡回もないだろうしてことで観に行ったもの。大竹伸朗大好きなんだよね。
INAXライブミュージアム自体は常設展示メインで、そこに一部企画展も加わるというような美術館兼博物館といった体裁の施設。決して大きい施設群ではないけれども、そこには世界のタイルの歴史を知ることのできる博物館や、日本における建築部材としてのテラコッタの歴史を知れる施設なんかもあったりして、その辺興味ある人であればかなりの時間を費やせる場所になっている。特に世界のタイルの展示は、質と量を同時に把握しながらその歴史的変遷を俯瞰できるという点で、とても興味深い。中国のタイルをベースにオランダへと伝播していったデルフトタイルに心癒されるというか、それこそほっこりするような“手づくり”の暖かみ/良さが、それ以降のイギリスでの量産システムを経た反動と言えるアーツ&クラフツ運動といった動きまで俯瞰する中で再度浮かび上がってくるような展示形式であって、それが嫌みなく伝わってくるタイル自体の魅力に納得させられる。初夏の暑さに脳を溶かしながら言えば、うん良いよねえ手描き、、、てのが、とても素直に実感出来てしまうのが面白かった。
そんな中の一室で展示されていた大竹伸朗『焼憶』展について。INAX大竹伸朗の関係は、直島の公衆浴場「直島銭湯 I♥湯(アイラブユ)」プロジェクトでのタイル制作での関わりからとのこと。展示自体は、大竹伸朗の過去作品の画像を焼き付けたタイルや、常滑の写真(大竹伸朗撮影と思われる)を焼き付けたタイルによる壮大なコラージュ作品であり、それが巨大な本のハードカバー部分を形作るというもの。大竹伸朗によるコラージュでかつ本の形式の作品と聞けば、ライフワーク的に続けているスクラップブックが想起されるが、今回の作品はその巨大ver.と取って良いのか。けれどページ部分は明らかにぞんざいな白紙の扱いで、タイルで覆われているのは表紙/背表紙部分のみ。外部とも言えるそのハードカバー部分は、タイルの整列によるグリッドと、画像の集合によるカオスが共存しており、さらにそれまで観てきた世界のタイルにまつわる展示や土と人の歴史を思い起こす中で、人が作品を作る媒体としての土という素材の強さと、同時に無常さをも思い起こされる。紙にくらべてさらに強いその素材により形成されたスクラップブックの元ともいえるそれにスクラップされるのは、何なのか。観るものの記憶を焼き付けるそれは、同時に記憶を焼き尽くす時間をも象徴するようでもある。
タイルにまつわる技術が進化してきた経緯を踏まえながら『焼憶』展の展示を見直すと、その技術の進化が逆に儚さを浮かび上がらせるようでもあり、だからこそまたそれが潔さにつながりもするといったいくつもの意識の層を巡る感覚があって、今という時代の中でまさに今を把握することの厄介さをを感じたりもした。いや抽象的だけれども。

抽象的だけれども日常的な、人と人の関わりについての些細だけれども重要な気付きがあって、それをこういった所に残せば後々振り返れるよなんて思っては、忘れる。まあよくあること。大体は夜の月に照らされた帰り道にふと気付くことが多いそれらは、部屋に着いて照明を付けるころには忘れている。しばらくしてまた思い出し、覚えている自分に安心してはまた忘れる。そんな風にして忘れられたコトたちは、ますむらひろしの描く漫画だったら夜の風に乗る見えない言葉になったり、三日月の晩にだけ花開くクリスタルの花弁になったりするのかもしれないけど。
忘れるてことはそれが重要ではないからだってのは正しくないぞってのは、そういったいくつもの中で唯一覚えていられていることかもしれないよなあ。

Los Amigos Invisibles

南米ベネズエラ出身のLos Amigos Invisiblesによる2013年作。Latin方面にはあまり詳しくなくて上手く語れないのだけれど、SalsaやBossa的な音色をベースとしたラテン・ディスコな音作りな中で、勢い良く弾ける方向性とはひと味違う抑制の効いたFunknessを備えたダンスミュージック、とか言えば良いだろうか。モータウンビートで可愛い曲なんかも入ってたりする、バリエーションある一枚。

  • Los Amigos Invisibles - Invisible Love


リピート・アフター・ミー

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